もう二度と会うこともないだろ

入社当時から決めていた２年が経ち、僕は退職願を書いた。もともと２年で辞めることを公言していた僕のことを営業所の所長は良く思っているはずもなかった。退職願を提出したその日、所長は居酒屋に僕を誘った。

「お前には、だから教えなかったこともたくさんある。」
酒の席で、これまで飲み込んでいた思いを所長は語った。いずれは辞めるとわかっている人間をどう育てるのか。２年なんて歳月では一人前にはなれはしない。「仕事なめんなよ！」

2年で辞めるから2年と公言し、公言どおり2年で辞める。業界や仕事に疑問を感じながらも、公言どおりに約束を果たしたことを僕自身は誠実な態度だと思っていた。しかし、会社や育てる立場にある上司からみれば、そうではない。どんな場所でも、先輩が後輩を育て継承されていくものがある。そこには人情や風土への愛着というものもある。恐ろしく世間知らずだった僕は、会社やそこで働く人との関わりというものについて初めて考えさせられた。

「もう二度と会うこともないだろ。」
所長の最後の言葉は象徴的だった。毎日顔をあわせ、さんざんお世話になった人にその言葉を吐かせてしまったことに心も痛んだ。しかしどう考えてもその言葉は正しかった。その関係は自らの意思で会うことは二度とないであろう関係だった。

誰かの生きる力になる作品

いつでも辞められる契約社員で工場の夜勤の仕事をしながら、僕は自分の就くべき仕事について考えていた。次の仕事はどうしても自分が心から心酔できる仕事に就きたかった。少なくても自分がその仕事に誇りを持てる仕事がしたかった。

音楽はもう選択肢にはない。そう考えた時、自分が音楽で何をしようとしていたのか、改めて考えさせられた。モテたいとか、スポットライトを浴びたいとか、そんなことではない。僕は音楽の圧倒的な力に魅せられていた。それはブラスバンドでクラリネットを吹いていた幼年期からずっと感じてきたことだった。

これまで僕が影響を受けた偉大なアーティストは「生きる力」を僕に与えてくれた。メロディーや和音、ビート、そして歌。それらは僕の中に根付き、生きるために必要な底辺となる価値観を形成させてきた。

「生きる力」を与えてくれる作品。そう考えた時、僕はそれが音楽に限定される必要がないことに初めて気がついた。デザインや出版、映画、テレビ…etc.　作品づくり、ものづくりに関わる仕事、「誰かの生きる力になる作品づくり」に携わることができれば。それが僕の出した答えだった。

その中でデザインが一番イメージしやすかった。時代は写植からDTP（DeskTopPublishing）へと移行していた。IllustratorやQuarkなどのアプリケーションの操作さえできれば、仕事に就けそうな気がした。

ちょうどその頃、職業訓練校の話を母から聞いた。職業訓練校なら失業保険をもらいながら、しかも学費なしで学ぶことができる。夜勤明けにハローワークに立ち寄り、そのパンフレットをもらって帰った。

クーラーのない暑い部屋の中でそのパンフレットを開くと、そこにはDTPの習得コースがあった。僕は迷うことなく、そこに願書を提出すると決めた。うるさいほどに鳴く蝉の声がまるで歓声のように僕のその未来を肯定してくれていた。