桁違いの喜び。そして、喜びの押し売りはダメ

僕がリビングでクラリネットの伴奏パートの練習をしていると、現地人のお手伝いさんのスーニーがやってきて「ヒロちゃん、何か演奏して」と言った。確かに、単調な伴奏パートでは曲には聞こえない。

スーニーは僕らといっしょに住んでいた父方の祖母から日本語を教わっていたので、片言の日本語が話せた。電話が鳴ると、「ちょっと待ってね～」と日本語で電話機に話し掛けながら歩いていくし、中蓋をし忘れて洗濯機がガタガタを踊り出した時でさえ、「ちょっと！おばあちゃん大変！」と日本語で絶叫するくらい日本語に慣れ親しんでいた。

僕は少し照れ臭かったので、スーニーの方を見ずに「錨を上げて」の主旋律を演奏した。ひとりでは聴衆とも呼べないけれど、僕は胸の高鳴りを感じていた。誰かに求められること、誰かが喜んでくれることで、ひとりでクラリネットを吹くよりも桁違いの喜びを感じられる。その時の小さな発見が、人生における喜びの大半を成すことにもちろん小学生の僕はまだ気が付いてはいなかった。

スーニーには子供たちがいた。警察官の旦那さんとスーニーは都会で暮らし、子供たちは田舎でおばあちゃんたちと暮らしていた。大きな連休でスーニーが帰省する時には、僕や兄が使って古くなった文房具やおもちゃを子供たちのお土産に持って帰った。

田舎から戻ると、子供たちがすごく喜んでいたと話すスーニー。当時、日本の製品は高く、貴重だった。子供たちが喜んでくれることはもちろんだけれど、何よりスーニーがすごく喜んでくれるので、スーニーの帰省前になると僕はまだ自分が使っているものまで差し出すようになっていた。「それはまだ使っているんでしょ？」 横でみていた母がみかねて言った。スーニーも少し困った顔をした。それは喜びの押し売りだった。

誰かの喜びを自分の喜びとする。それは心豊かな人生を歩むためにとても大切なことだ。その喜びはその場では終わらず、心に残る。何十年も経った今でもスーニーの喜んだ顔を僕は覚えている。でも押し売りはいけない。相手が心から喜んでくれる、その喜びをわかちあう。その時の気まずさは、それが正しい姿だと小学生の僕に教えていた。

夕方になると警察官の旦那さんが僕らのアパートの入口までスーニーをバイクで迎えにくる。バイクの後部シートに腰掛け、少し汗ばんだ顔に夕日を浴びて足をぶらぶらさせながら、ヤシの木と住宅の入り混じったアパート前の通りを、手を振って帰っていくスーニーの笑顔が今も忘れられない。